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セキシンの創業前夜
Episode01 Episode01 1968年 7月

セキシンの
創業前夜

セキシンの創業前夜

セキシン創業者・東野實(以下、東野)は23歳まで滋賀の生家にある寺で僧侶をして生計を営んでいましたが、自動車産業や電気産業をはじめとする日本の製造業の黎明を感じ、裸一貫で上京。大企業と取引がある中小電気メーカーで営業、総務、資材管理、製造生産管理などの経験を重ねました。
1967年(昭和42)、当時東野が勤務していた会社では、ある大企業から精密部品を受注製造していましたが、部品の不良が続出。製造生産管理の知識があった東野は、取引先へ謝罪に出向いた際に解決策を提示し、それに関心を持った先方の部長から個人的に製造を打診されます。かねて独立を考えていた東野は起業の手始めに受注を承諾し、取引先の工場の一隅を借りる形でセキシンの歴史が始まりました。
東野の考えた解決策は功を奏し、セキシン初の部品製造は無事に成功。月産万単位での受注も獲得し、増産体制が必要になったことから都内に工場を構えることとなったのです。

一本の電話が後の事業の礎に
Episode02 Episode02 1971年 7月

一本の電話が
後の事業の礎に

一本の電話が後の事業の礎に

「新しい仕事があるんだけど、やってみないか?」創業から3年後の1971年(昭和46)、セキシン創業のきっかけとなった取引先の元部長から電話がありました。聞けば、元部長は当時急成長中を遂げていた家電メーカーに転職したとのこと。折しもこの家電メーカーは、工作機械用計測機器の新会社を設立しており、その初代製造部長兼技術部長に就任した彼から新たなビジネスの依頼が舞い込んだのです。一本の電話から始まった取引は今なお続いており、50余年に及んでいます。

大企業の協力会社として急成長
Episode03 Episode03 1975年

大企業の
協力会社として
急成長

大企業の協力会社として急成長

「国内大手家電メーカーで極秘裏に新商品の開発が検討されている」そんなニュースが耳に入ったのは、1975年(昭和50)のある日のこと。関係者の情報をつなぎ合わせると、「世界初のビデオ」という装置であることが判明しました。早速セキシンは人脈を辿って担当者と面談し、「極秘部分以外の配線組立だけで協力させてほしい」と懇願。その甲斐があり、一部加工の受注を獲得しました。
後に、同家電メーカーが愛知県岡崎市に新工場を設立しました。新商品の試作から開発に携わっていたセキシンは実績を評価され、第一号の協力会社として認定されます。以来約25年にわたり、VHSや8ミリビデオなどの受注加工を独占的に担当。全体で1億台にのぼる生産に大きく貢献しました。映像の新時代を切り拓く商品開発を支えることで、当社はものづくりメーカーとして飛躍的な成長を遂げたのです。

滋賀でのものづくりを本格化
Episode04 Episode04 1976年 2月

滋賀での
ものづくりを本格化

滋賀でのものづくりを本格化

製造業に求められる条件である、品質、納期、コスト。そのうちのコストは、当時東京に工場を構えていたセキシンにとって一つの課題でした。コスト面でもお客様のニーズにもっとお応えできるよう、都市工場での製造を滋賀の工場へと順次移行することに。次代の業務拡大を見据え、東京を営業拠点として独立させたほか、滋賀では300人を収容できる新工場の建設を開始しました。

サイネージビジョンの将来性を確信
Episode05 Episode05 1985年

サイネージビジョンの
将来性を確信

サイネージビジョンの将来性を確信

この年、セキシングループの未来を左右する出来事がありました。1985年(昭和60)の「国際科学技術博覧会(通称つくば万博)」において、ソニーが約30億円の予算を投じて巨大なテレビを出品することが明らかになったのです。工期はわずか半年、お披露目はたった一度限りという厳しい条件を、当初多くのメーカーが敬遠しました。
しかし、サイネージビジョンが持つ演出効果や表現力に将来性を見出したセキシンは、自ら進んで画面部分の制作設置を請け負いました。この挑戦の決断が、現在当社の主力製品であるLEDビジョンの開発につながっていきます。

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